ウクライナYWCAからの声 (1)
ウクライナYWCAの女性たちは、厳しい状況下にあって、SNSでの発信を続けています。
ウクライナYWCA会長のナターリヤ・ウリアネッツさんをはじめ、ウクライナYWCAの女性たちが3月の発信した記事の日本語訳をご紹介します。
ナターリヤ・ウリアネッツさんの投稿
写真は、私の家の窓からの風景です。日付は昨日…。私の家から歩いて10分のところです。
戦争が始まって以来、キエフでは60人の民間人を含む222人が死亡しています。死亡したうち4人が子どもです。
市内での負傷者は889人で、そのうち241人が民間人です。その中には 子ども18人、救急車の運転手3人、救急車の医師1人が含まれます。
キエフでは、敵は40軒以上の家、10軒の民間施設、6つの学校と4つの幼稚園に被害を与えました。70軒以上の家屋の外壁、バルコニー、窓が被害を受けました。
ナターリヤ
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3月25日投稿記事
昨日3月24日、ロシア軍がウクライナの都市を爆撃し始めてから1ヶ月が経過しました。ハリコフからヴォルノヴァハ、マリウポリからケルソンまでの都市が爆撃の深刻な影響を受け、350万人以上のウクライナ人が難民となり、650万人が国内避難民となりました。3月22日、国連は民間人の死者925人、負傷者1,500人と発表しましたが、実際にはこの数字はもっと多い可能性があります。ロシアとウクライナの両軍の犠牲者を確実に計算することはまだ不可能です。この破滅的な1カ月を世界はどう記憶するのでしょうか。
この4週間は、私たち女性、つまり母親、妻、姉妹にとって、恐ろしい現実となりました。最近、ある若い女性がフェイスブックに、最愛の夫が戦死し、25歳で夫を亡くした女性となったという胸に突き刺さるような書き込みをしました。ただただ心が痛むばかりです。2日前、私の息子が郵便局に並んでいるときに銃撃を受け、怪我がなかったのは幸いでしたが、この日のことは決して忘れません。
私たち女性は日々を生き続けています。皆さんには、落胆や恐怖に陥ることなく、ここは戦争があるべき場所ではないということを示すようお願いします。
(中略)
キエフに残った私たちにはとても難しいことですが、爆撃されたマリウポリ、破壊され燃えたキエフ近郊の小さな町、ブチャ、イルペン、ゴレンカにいる人たちとは毎日精神的につながっています。
主が私たち全員を守ってくださいますように。
ナターリヤ
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ウクライナYWCAの女性たちの体験
これは、オブヒフのYWCAのメンバーであるマリーナ・クラフチェンコの物語です。
「戦争の前線の後ろにいる女性として」末娘と一緒に ここオブヒフにいます。そして、私には自分の闘いの前線があります。
守る、食べさせる、支える、信じるという基本的な本能が動き出したのです。
店が空っぽになってなにもない時には、パニックが広がりました。この空っぽの棚は、 私の子どもの頃の記憶を呼び起こしました。このような危機を何度経験したことでしょう!? (中略)
子どもたちは歴史に興味を持ち始めました、「(過去の戦争は)どうだった、どうやって生き延びた!?」と。私が子どもたちに当時のことを話して、一緒に笑いました。
一週間後、お店に少しずつ商品が並び始め、カウンターに並んだ商品を見たとき、私は泣きました。全部買って、他の人にあげたいくらいです。友達に電話をして、「お店に食べ物があるよ」と教えてあげました。
私たちの街オブヒフは生きているのです。
私は生きている。私は自分の物語を作ることができます。私が変わったように、私の国も変わりました-自由になった!
これはYWCAのメンバーであるアレーナさんとその娘さんの物語です:
(前略)
ウクライナYWCAのアレーナさんの体験です。彼女は2月中旬に30歳の誕生日を迎え、その10日後に戦争が始まりました… ” 私は限界までキエフにいました。しかし、後になってわかったことですが、「限界」は人それぞれです。午前3時にサイレンが鳴り、飛び起きて服を着て、4歳の娘と地下室に避難してそこで眠りました。
(中略)何度も何度も深夜に地下室に避難することを繰り返し、ベッドで寝るのがどんな感覚かを忘れてしまいました。廊下と物置が私たちの寝床になったからです。(中略)
そして、ウクライナ西部に行くことを決めました。3日間、車で移動しました。その夜は、古い村の学校の地下室で、食事もとらず、温かいものも飲まず過ごしました。(中略)
ヴィニツァに近づくと、ヴィニツァ空港が爆破されているのが見て、私はずっと泣いていました.涙をこらえることができなかった…とても苦しかった…
イワノフランキフスクに滞在して10日が経ちました。(中略)私たちは空港の近くに滞在していますが、ひどい爆発音で2回目が覚めました…とても恐ろしかったです。爆発はとても強く、私たちのいるアパートの窓が今にも吹き飛ばされてしまいそうでした.
今はサイレンの音が日常のようになっています。イワノフランキフスクの人たちには、サイレン音を聞いたら地下に降りるように伝えています。キエフにいる親戚は1日に20回もサイレン音が鳴る状況だからです・・・今は、他の人を助けることができるのがうれしいです。娘と私は比較的安全な場所にいるので、困っている人たちを助けることができるのです。私は薬を買って、今その薬が手に入らない地域に送っています。棚は空っぽで、薬局はまったく機能していませんから。
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